日時: 2014年11月21日(金) 18:20~20:00
テーマ: 「エピクロス: その物理学、哲学、生き方」
哲学には、大きく二つの流れがあるように見えます。一つは大学での哲学、体系の構築を目指す哲学です。これに対して、自己の創造や人生を一つの芸術作品にしようとする生きることに直結する哲学があります。カフェフィロPAWLは、長い間劣勢にあった後者の流れの中を歩む予定です。当面の間、生きることに関わる哲学を展開した哲学者の歩みを振り返りながら、そこで問題にされたテーマをわれわれ自身に引き付けて考え、語り合うことを中心に据えることにしました。このような営みの中で、われわれの生き方に新しい風を吹き込み、人間存在そのものに対する理解を深めることができれば素晴らしいと思っています。
第2回のPAWLでは、古代ギリシャのエピクロス(341BC-270BC)の物理学と哲学、そしてその生き方を取り上げます。エピクロスの物理学によると、この世界は原子と空虚から構成され、神の支配を受けることなく原子は空虚の中を動いています。偶然によりその動きが乱れた時、原子間の衝突が起き、「もの・こと」が現れます。一方、快楽自体を悪とせず、心地良いことを善とする彼の哲学は、快楽主義として意図的に歪曲、誤解され、排斥されてきました。エピクロスは必要のない過度の快楽追求を戒め、心身の苦痛のない状態が齎す永続的な心の平静こそ幸福であるとしました。また、友情を必須の価値と考え、彼の教えを説く学校(「楽園」)をアテネ郊外に建設しています。現代でも色褪せない彼の哲学の骨子を講師が30分ほど話した後、約1時間に亘って意見交換していただき、懇親会においても継続する予定です。
会は無事に終了いたしました
年末のお忙しいところ参加された皆様に感謝いたします
これからもご理解、ご協力のほど、よろしくお願いいたします
(2014年11月22日)
今回のまとめ
今回は古代ギリシャの幸福の哲学者と謂われるエピクロスを取り上げた。なぜこの哲学者を選んだのかを振り返ってみると、わたし自身と直接関係する記憶が蘇ってくる。若き日にエピキュリアンだと言われ、フランス語を始めてからも知り合いになったフランス人と話す中で、あなたはエピキュリアンだと指摘されたことがある。エピキュリアンと聞くと、酒池肉林を思わせる快楽主義者という漠然としたイメージしか持っていなかったので若干違和感を覚えたが、エピクロスという哲学者の考えに当たるところまでは行かなかった。その後、フランスで哲学することになり、エピクロスを源とするエピキュリアンの思想を調べる機会ができた。そして、4-5年前にソルボンヌのフランス文明講座に通っていた時には、この哲学者について発表したことも蘇ってきた。エピクロスは快楽を分析し、自然なものと無益なもの、さらに自然なものを必須なものと不必要なものに分けた。その上で、人生の目的を幸福に繋がる快楽、すなわち自然で必須な快楽の追及に置いた。彼の求める快楽だが、この言葉を聞いて想像するプラスの快ではなく、マイナス(不快)のない状態であった。具体的には、心の悩みや心配事のない状態(ataraxia)、体の苦痛のない状態(aponia)を指し、ある意味では凪の状態とも言える。その状態の中にいると、快にあることに気付き難い。そこからの逸脱があった時にそれ以前が幸福だったと分かるということになる。プラスの快は長続きせず、そこから離れると不快が待っている。マイナス(不快)の状態にいて幸福を感じる人は、稀な例外を除いていないだろう。同じように快楽の追求を主張する人たち(ヘドニスト)がいる。しかし、彼等がプラスの快を最大にしようとすること、さらに幸福追求という視点が弱い点でエピキュリアンと異なっている。エピクロスの快楽追求が抑制的で静的なものに見える。ただ、エピキュリアンもプラスの快をすべて拒否するわけではないが、それは必須のことではなく、幸福への条件でもないと考えている。
エピクロスの世界観はデモクリトス(c. 460 BC-370 BC)の影響を受けた唯物論で、存在するすべては原子と空虚から成っており、何物にも支配されることなく原子が空の中を動いていると考えていた。彼の宇宙は無限で目的はなく、その宇宙には無限の世界が存在する。彼は精神も神も物質であるとし、この世界の事象に神は直接関わることのないとする理神論に近い立場を採った。したがって、神は恐れるに足る存在ではないと説いた。また、死は永遠の眠りのようなもので、感覚のない状態であるので恐れるに足りないとした。これらはマイナスの快を取り除く処方箋にもなったのである。
古代ギリシャの主流の哲学者は、人間を政治的動物と捉え、政治に参加してポリスに貢献することを求めた。しかし、エピクロスは家庭を持つことや伝統的な政治に参加することを勧めない。しかし、それは非政治的な考えではなく、友情を基にしたコミュニティを構築し、その中で生活を共有して自らを啓いていくことを勧めている。アリストテレス、プラトン、ソクラテスから何ら霊感を受けることなく、autodidacte を自称していた彼は、35歳の時にアテナイに楽園を作り、そこで考えを共にする人たちと72歳で亡くなるまでの時を過ごすことになる。『メノイケウス宛ての手紙』 には有名な次の一節がある。「若いからと言って哲学することを後回しにしたり、年老いているからと言って哲学することに飽く者が一人もいないことを願う。なぜなら、誰であれ精神の健康を守るのに早すぎたり遅すぎたりすることはないからだ。そして、哲学する時はまだ訪れていないと言ったり、その時は過ぎ去ったと言う者は、幸福についてその時がまだ来ないとか、最早ここにはないと言う者に似ている」哲学するのは今だ!として、すべての人を哲学へ誘っている。古代ギリシャの哲学者が「魂の医者」としての役割を強く自覚していたことが分かる。わたし自身は最早「体の医者」になる機会はないが、エピクロスに触れると「魂の医者」を目指し研鑚せよと促されているようにも感じる。魂の癒しは体の癒しにも繋がるだろう。医学(medicine)の語源が「癒しの技術」を意味するラテン語のmedicinaであることを考えれば、その営みは長い科学での生活の後に医学本来の道に入ることを意味しているのかもしれない。
次回は来年の夏以降になる予定です。
これからもご理解とご支援をよろしくお願いいたします。
(2014年11月23日)
● 本日の会、参加させていただき誠にありがとうございました。エピクロスはもちろん、哲学に触れるのもほぼ初めての経験でしたが、久しぶりに「考える」という行為をした気がいたします。たいへん楽しく、またとても勉強になりました。的外れな意見を述べてしまったような気がして恐縮しておりますが、またぜひ参加させていただければ幸甚に存じます。● 昨日はありがとうございました。様々な哲学者について教えていただく機会を持てますのは、たいへん有意義であるとあらためて思いました。エピクロスは、重要な哲学者の一人ですね。それで話は飛ぶのですが、モーツアルトに関するテレビ番組をみたことがあります。レクイエムを作曲中に亡くなるのですが、けっしてそれを最後の作品と思っていたのではない。これから自分は教会音楽を作っていくというその決意表明のような、きわめて意欲的な作品であったというのがその番組の趣旨でした。そして最後にモーツアルトは「貴族などからのしばり、時代の要求からはじめて離れることができ、これから作りたい曲だけを作曲していけると思ったときに自分の音楽を見捨てていかなくてはいけないとは。」と語ったと紹介されていました。モーツアルトは晩年肉体的苦痛はあったのかもしれないのですが、精神的には本当に平安な境地にあったのではないかと思います。そんなことを今朝思いました。
● 昨日は、大変御世話になりました!昨夜は、皆さんとのディスカッションが大変楽しく感じられました。また、矢倉先生の提示されたものには、様々な広がりを感じさせて頂き、考える楽しみがあります!昨日は本当に楽しかったです!ありがとうございました~☆
● 学問のみにとどまる哲学ではなく、生きる方法としての哲学という視点は、とても共感させられました。誰しも自分の内に哲学というものを、無意識のうちに積み重ねているのではないでしょうか。ただ、それを言葉で表す機会は日々の暮らしの中ではあまりなく、さまざまな先人の教えや考えを振り返り、 自分の内を照らして言葉に出してみるという機会は、効率性や直線的思考が第一とされる昨今では、 なかなか贅沢な時間のように思われました。
目の前のことをひたすら回し片付けていく、馬車馬のように働き方では、自分の専門書を読むだけでも精一杯( 実際はそれができれば御の字)ですが、もしも、先人の思想や哲学を紐解く時間を作れたのならば、自分をより遠くから、 客観的に見つめることができるのかもしれません。そういった意味でも、 暮らしに時間の余裕を持つことは大切ですね。
● 金曜日は,エピクロスを題材に楽しく、また実のある会をありがとうございました。お話を聞きながら、最近はやりの、実験心理学や脳科学研究の知見をもとに語られる「幸福学」(たとえば,人間がもっとも幸福を感じるのは物事に“没頭”しているときだ、とか、収入が増えても、ある一定のところからは幸福感の上昇には与しない、など)を参照・ 比較しながらエピクロス哲学を見直すのも面白いかもしれない、と思いました。時間をみつけて「考えて」みたいと思います。
Aucun commentaire:
Enregistrer un commentaire